先日、オンラインショップで「日本人の歴史教科書」を買った。
私も義務教育時代に一度は勉強したはずだが、殆ど覚えていない。中国や韓国に文句をつけられながら出来上がった歴史教科書のようだがまったく覚えていない。純粋無垢な子供たちの脳に、反日国家の都合の良いことを学習させるとは、、、悲しい国ですね。
歴史に関していえば勉強しなかったことで、ある意味救われたのかもしれない。
この本の内容説明は、
【日本が数々の犯罪行為をしてきたかのような「自虐史観」が幅をきかせている現在の歴史教育では、子供達は日本に誇りをもてなくなる。第一線の論客達が、日本の誇るべき歴史と伝統を語る。「新編新しい歴史教科書」を完全収録。】
ということで、まず私が最も興味を惹かれる明治時代の歴史から読んでみることにする。
4章 近代日本の歴史
4章 近代日本の歴史
第2節 明治維新
明治維新とは何か
■欧米列強の植民地化を免れる
1800年頃、世界の85%を支配していた欧米列強は1914年第一次世界大戦が始まる頃には支配権を約85%にまで拡大していた。明治維新はこの間(1863年)に起こった出来事で、これがなければ日本は欧米列強の支配下に組み入れられていただろう。
1800年頃、世界の85%を支配していた欧米列強は1914年第一次世界大戦が始まる頃には支配権を約85%にまで拡大していた。明治維新はこの間(1863年)に起こった出来事で、これがなければ日本は欧米列強の支配下に組み入れられていただろう。
薩摩と長州の二つの有力な藩が幕末に欧米列強と戦争をした結果、欧米と日本の力の差を痛切に認識し、西洋文明を積極的に学ぶ方向に政策を転換した。
明治維新は、ヨーロッパの革命(とくにフランス革命)のように、市民が暴力で貴族の権力を打倒した革命ではなかった。武士身分を廃止したのは、ほかならぬ武士身分の人々によって構成されていた明治新政府だった。
フランス人学者モーリスパンゲは、
「日本の特権階級であった武士は他の階級によって倒されたのではありません。外国の圧力の前に、自ら革命を推進し、そのため自らを消滅させるという犠牲を払ったのです。革命といってもそれはある階級が他の階級を倒すという普通の意味の革命ではありません。武士たちの望みは、日本という国の力を呼びさますことだったのです。」
モーリス・パンゲ「自死の日本史」より一部抜粋
「日本の特権階級であった武士は他の階級によって倒されたのではありません。外国の圧力の前に、自ら革命を推進し、そのため自らを消滅させるという犠牲を払ったのです。革命といってもそれはある階級が他の階級を倒すという普通の意味の革命ではありません。武士たちの望みは、日本という国の力を呼びさますことだったのです。」
モーリス・パンゲ「自死の日本史」より一部抜粋
明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現された革命だった。
■教育立国
新政府はいち早く、平等で公平な教育の機会を国民に保障する学校制度を作った。
学制発布により政府は2万6千校の小学校の設置をめざした。その多くは寺小屋や藩校を転用した。学校は国民に平等に開かれ、武士の子も町民・農民の子と一緒に机を並べて競いあうようになった。能力と努力に応じて平等に未来が約束されるこの仕組みが、これまでの身分意識をこわすのに役立った。
こうして明治維新の教育立国の方針は日本の近代化の土台になった。
学制発布により政府は2万6千校の小学校の設置をめざした。その多くは寺小屋や藩校を転用した。学校は国民に平等に開かれ、武士の子も町民・農民の子と一緒に机を並べて競いあうようになった。能力と努力に応じて平等に未来が約束されるこの仕組みが、これまでの身分意識をこわすのに役立った。
こうして明治維新の教育立国の方針は日本の近代化の土台になった。
■岩倉使節団
明治4年、岩倉具視を代表とする総勢110名がらなる岩倉使節団は、2年近く欧米文明を実地に学び取った結果、欧米と日本との文明の進歩の差はおよそ40年と見積もった。
そして、何よりも近代産業の確立(富国)を優先して欧米に追いつくべきだと考えるようになった。
そして、何よりも近代産業の確立(富国)を優先して欧米に追いつくべきだと考えるようになった。
■政府の分裂と西南戦争
日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼として士族の間で武力を背景に「征韓論」が沸き起こり、西郷隆盛は自分が使節として朝鮮に行くことを強力に主張したが、欧米諸国の強大な軍事力を目のあたりにして帰国した岩倉具視と大久保利通らの反対にあい、延期された。これに怒った西郷と板垣退助、江藤新平らは政府の役職を辞任した。
明治10年、鹿児島の士族たちは西郷を指導者として兵を挙げたが、徴兵された平民からなる政府の軍隊に敗れた(西南戦争)。
これ以降、士族たちの武力による抵抗はあとを絶った。
これ以降、士族たちの武力による抵抗はあとを絶った。
■文明開化
西洋文明をとりいれていかねばならないことが次第に理解されていき、文明開化の重要性が説かれるようになった。
1873年(明治6年)に太陽暦が採用され、1日が24時間、一週間が7日間で日曜日が休日とされた。
1873年(明治6年)に太陽暦が採用され、1日が24時間、一週間が7日間で日曜日が休日とされた。
福沢諭吉の「学問のすすめ」などの啓蒙書が出版され、身分ではなく実力がものをいう社会の中での独立自尊の精神の大切さが説かれて広く読まれた。
人々の生活も大きく変化し、東京などの都市では帽子、洋服、牛肉食、ランプの使用が広まった。
文明開化と殖産興業政策でまず西洋から取り入れたものは
電信制度 郵便制度 鉄道 官営工場 太陽暦 洋服 帽子 ランプ 食肉 牛乳
電信制度 郵便制度 鉄道 官営工場 太陽暦 洋服 帽子 ランプ 食肉 牛乳
【ここまでの感想】
※明治6年に太陽暦が採用されるまでは、なんとかの刻、泣く子も黙るうしみつ時、などといわれ、正確な時間の感覚はなかったのだろうか。週に一度の休日もなく、生活のリズムの基準はどのようにしてたのだろう。
※明治維新後も文明開化を推進していく者と、士族制度を守ろうとする者たちとの戦いがあり、必ずしも明治維新は一枚岩ではなかった。
※明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた人たちによって実現されたことが、後の文明開化の推進と発展を可能にした。
いま私たちに必要とされるのは、こうした明治人の気骨だ。
いま私たちに必要とされるのは、こうした明治人の気骨だ。
引きつづき第3節を読んでみる、、、
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